写真・映像用品年鑑2017
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280東(横浜)の下岡蓮杖本姓は桜田、通称は久之助(のちに下岡姓となる)。文政6年(1823年)2月12日、伊豆下田中原町に生まれる。大正3年(1914年)東京浅草に没す。享年92歳。蓮杖の若い頃の履歴はよく分かっていませんが、絵師を志し、江戸に出て幕府の御用絵師・狩野董川に学んでいます。一説には薩摩藩下屋敷にてダゲレオタイプ(銀板写真)に出会って強い関心を抱いたといわれます。その後、写真技術の習得のため開港して西洋人に出会える下田に戻り、アメリカ領事館に雇われたといいます。安政3年(1856年)、タウンゼント・ハリスの通訳官ヘンリー・ヒュースケンに写真撮影・現像技法を学んだ後に、こんどは横浜に移ります。アメリカ人貿易商レイフル・ショイヤーのもとで、写真家J・ウイルソンより苦労して写真を学びましたが、文久元年(1862年)にウイルソンが日本を去るときになって、やっと蓮杖が描いた絵と交換に写真機材と薬品を譲り受けたといわれます。写真の撮影・現像技法を習得し機材・薬品を得た蓮杖は、現在の横浜市中区野毛町に小さな写真館を開業。注文に応じた肖像の撮影のほかに、外国人客の土産用に日本の風景や風俗も撮影、これは現像後に着色した疑似カラー写真で、当時の様子を知る貴重な記録となっています。肖像写真は、書き割りの風景画などを背景としていたようですが、開業したばかりの頃は、撮影料が高額だったことや、写真に写ると魂を抜かれるとか病気になるといった風説を信じたのか、庶民が進んで被写体になることはなかったようです。蓮杖は、最初の頃は科学の知識がなく写真の技術を習得するためにたいへんな苦労をしたようですが、絵師としての腕は確かで、その作品が写真機材を取得するのに役立っただけではなく、背景画の作成、写真の着色にも役立っています。写真館は一時下田に移りましたが、慶応3年(1867年)に横浜に戻り、馬車道の太田町に「全楽堂」を開業。今に残る多くの写真が撮影されました。また多くの弟子も育て、蓮杖の門下である横山松三郎、鈴木真一、江崎礼二などの写真師が輩出しました。蓮杖はまた、文明開化の新技術に対する好奇心も旺盛で、写真だけではなく石版印刷、喫茶店、ビリヤード、牛乳製造、馬車屋など文明開化の時代らしい事業を展開、さらに東京・横浜間の乗合馬車事業まで手を広げています。なお号の「蓮杖」は、絵の師・狩野 董川に由来します。名前の「董」が蓮の根を表すことから、背よりも高い蓮根を模した杖を絶えず身近におくことで、師への感謝を忘れないようにとの意だそうです。静岡県下田市にある下田公園には蓮杖記念碑が建立され、また寝姿山自然公園の蓮杖写真記念館には遺品の数々が展示されています。下岡蓮杖 [しもおか れんじょう] (日本カメラ博物館所蔵)湿板カメラ(日本カメラ博物館所蔵)西洋の科学知識が徐々に知られるようになった幕末、日本の東と西で共に絵師の素養を持つ二人が、生まれ育った場所の影響か、かたやアメリカ人に、もう一方はフランス人に師事、湿板写真の技法を辛苦の末に習得します。のちに、ほぼ時を同じくして現在の営業写真館の元となる商業写真撮影を開始、激変期の日本と日本人の姿が写真という精密な映像によって後世に伝えられることとなりました。幕末・維新を記録した二人の写真師日本の写真の歴史は写真館から始まった写真草創記

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