写真・映像用品年鑑2017
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281西(長崎)の上野彦馬天保9年(1838年)8月27日、現・長崎市銀屋町に、蘭学者・上野俊之丞の息子として生まれる。号は季渓。明治37年(1904年)5月22日、長崎に没す。享年65歳。下岡蓮杖に比べ短命でしたが、幼少期の環境は恵まれていたようです。上野家は画家の家系で父・俊之丞は絵師でしたが、シーボルトに学んだ蘭学者であり、長崎奉行所の御用時計師を務めるかたわら、科学知識を利用して塩硝や更紗の開発をするなど多方面にわたり活躍した人物でした。俊之丞は、日本で初めて写真機材をオランダ人から入手していますが、それは銀板写真で、そのせいで彦馬が写真に興味を持ったのではないということです。広瀬淡窓の咸宜園で2年間学んだのち、安政5年(1858年)に彦馬は医学伝習所のオランダ医官・ポンペのもとで舎密学(せいみ学=化学)を学びます。その際に蘭書の中にあった写真術という言葉に興味を持ったのですが、それは湿板写真術でした。写真術に関心を持った彦馬は、ともに学んだ堀江鍬次郎らとともに手探りで技術を習得します。中でも感光材料には苦労したようで、そもそもアルコール、硫酸、アンモニアなどの原料の調達が大変だったようです。またカメラも製作し、既製の双眼鏡のレンズを流用して木製のカメラを作っています。写真の概念のなかった時代に、一から作り出していった努力には頭が下がります。そのころ、来日していたフランス人写真家ピエール・ロシエにも学んでいます。彦馬は、更に研究を深めるために江戸に出ます。その時の成果が、文久2年(1862年)に堀江鍬次郎とともに完成させた化学解説書『舎密局必携(せいみきょくひっけい)』で、写真の技術についても触れています。この本は明治になって学制が改まるまで、全国で化学の教科書として使われました。文久2年(1862年)、長崎に戻った彦馬は、中島川の畔にあった上野家の別荘兼化学実験所に「上野撮影局」を開業します。ほぼ同じ時に下岡蓮杖、鵜飼玉川も開業しており、この年が日本写真史の夜明けといえます。開業時の撮影料金は銀二分とかなり高価でしたが、裕福な商人や通訳などが数多く撮影に訪れたということです。このあたりは、下岡蓮杖が数々のアイデアで仕事を増やしていったこととは対照的です。頃は幕末から維新にかけての長崎ということもあってか、彦馬は歴史に残る志士や名士たちを数多く撮影しています。中でも坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らの肖像は当人の紹介に必ず使われるほどの彦馬の代表作となっています。また日本人だけではなく、清国の北洋艦隊提督の丁汝昌、大津事件に巻き込まれたロシア皇太子ニコライといった歴史に名をとどめる著名人も上野撮影局を訪れています。日本における写真術の確立だけではなく、歴史を語る貴重な肖像を残してくれたのです。そういった多忙な撮影の合間にも、彦馬は蓮杖よりも遙かに多数の門弟を抱え、富重利平、田本研造など著名な門人を輩出しています。彦馬は、肖像写真以外にも様々なジャンルの撮影をこなしており、明治7年(1874年)には金星が太陽面を通過する際の観測写真を撮影していますが、これは日本初の天体写真といえます。また日本初の従軍カメラマン(日本初の戦跡写真)として明治10年(1877年)に西南戦争の戦跡を記録しています。さらに同年開催の第1回内国勧業博覧会で鳳紋褒賞を受賞しており、当時からその業績は文化的に高く評価されていました。営業写真館としての業績も素晴らしく、明治23年(1890年)にはウラジオストック、上海、香港に海外支店を開設しています。上野彦馬 [うえの ひこま](日本カメラ博物館所蔵)上野彦馬撮影の武士像(長崎大学附属図書館所蔵)【湿板写真】1851年、イギリス人のフレデリック・スコット・アーチャーが発明した、コロジオンを塗布した無色透明のガラス板をつかう写真技法。表面が湿っているうちに撮影、硫酸第一鉄溶液で現像、シアン化カリウム溶液で定着という工程でネガ像を作る。コロジオン湿板とも呼ばれる。◉銀板写真(ダゲレオタイプ)に比べて感度が高いので5~15秒と露出時間が短い◉ネガ像から何枚でもポジプリントが可能になった◉銀板写真に比べて画質があまり変わらない◉かなり低価格 ということもあり、全世界に普及した。

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